積読
引っ越すことになったので、持っている本を一通り箱に詰める作業をした。別に読書家であるという訳でもないのに紙の本をやたら持っていて、小さめの段ボール箱を使ったということを差し引いても20箱 (400冊弱?) ぐらいになってしまい、なかなか骨が折れる作業だった。
前の引っ越しのとき箱に詰めながら「あ、これまだ読んでねぇ~読みてぇ~」と思ったはずの本に対して全く同じ感情を持ちながら全く同じ作業をしていると、何だか妙な心地になってくる。引っ越しで運ぶことになるものの大半が日々常用していて生活の一部になっている物品であるのに対して読んでいない本というのは自分の生活との間にそれなりの距離を持った存在であるわけで、それをただ豊島区から八王子市へ、八王子市から新宿区へ…と運んでいる状態。自分の生活拠点が移動するという都合にさほど関係がないはずの存在を汗水たらして箱に詰めて運んでいるのは、なんだかアホっぽくて面白い気がしてきた。
読みもしない本を買うこと、あるいは買った本を長い間読まずに置いておくことが悪いとは思わない。それはそれとして、そこに生じる物理的な重量を伴った諸々の苦労を自分は何のために背負っているのだろう、ということを考えてしまう。
紙本er
僕はあんまり「○○派」「○○党」みたいな言葉が好きではない。「Vim vs Emacs」は面白いからいいんだけど、正直僕がVimを使ってるのは「Visual Studio Codeに慣れる努力をするのがしんどい」みたいな割と消極的な理由なので、そういったイケてるエディタやIDEを使っている皆さんに対して「イヤ!Vimこそが至高のテキストエディタである!」みたいな声を張りあげるほど訴えたいことは全然ないし、なんでもかんでも思想的な背景をこじつけた対立構造に四捨五入されてしまうのは窮屈だ。君たちが酒の席でまできのこの山とたけのこの里を戦わせたりしていたから日本にはロクな野党が育たなかったのでは?と思う。1
ただ「Vimmer」という言葉は実質的で好きだ。そのまま解釈しても「理由はどうあれ今Vimを使っている人」という意味しか持っていなくて、少なくとも「Vim派」ほど思想的な圧力を感じない気がする。なので、僕は普段「Vimmerです」とは言うけど「Vim派です」とは言わないし、やたらと他人にVimを勧めたり他のテキストエディタを貶めたりはしてない…と思う。
何の話かというと、僕が生活の実態から「紙本派」への所属を強いられることに対しても上記したような違和感を感じてしまうのである。蔵書のほとんどは紙の本 2 だし、そういう生活を送っているのにも一応それなりの理由がある。あるんだけど、まあ別にそんな大したものではないし、電子書籍派の人々に対して訴えられるようなこともない。割と消極的な支持をしているという意味で言えば僕は「紙本er」 3 だけど「紙本派」ではない、と思う。
なぜ紙本か
大した理由ではないと言いつつ、一応は今のところ紙本を選んでいるわけなので、その根拠も書くだけ書いておく。また後で寝返ることを検討したときにでも見返したら色々と思うところがありそうなので。
ブックオフ大好き
僕は「今日は一歩も外に出てないな」みたいな気持ちになると一旦ブックオフに行く。思わぬ希少本があったり、本来ならまあまあ高いはずの本が手頃な価格で売っていたり、まあ何もなくても100円そこそこで買える本がそこらじゅうに並んでいる空間の居心地が悪いはずはないので、あんまり退屈はしない。こういう雑な流通が許されるのは物理本の特権だと思う。
ただ著者に金が入らないという問題は勿論あるので、自分ルールとしてブックオフでは完結している漫画しか買わないことにしている。市場云々というより、打ち切られてしまったときに後悔をしたくないという割と独善的な動機ではあるし、この程度の自主規制で胸を張れるかというと微妙なんだけど、それでも可能な範囲で好きなコンテンツに金を落とさなければ滅んでしまう可能性がある…という気持ちを忘れてはならないなとは思う。
貸し借りしやすい
まあこれも上記と同じである。可搬性の話。
物理的な制約を持たない電子書籍より紙本の方が貸し借りしやすいっていうのは何とも皮肉な話ではあるまいか。インターネットにおけるコンテンツの権利問題は今後も永遠に議論が続いていくだろうし、そういう「どこまでが私的な複製として許容できるか」みたいな話が一通り盛り上がったあとで ザナドゥ計画 とか見るとテッド・ネルソンすごいなと思ってしまう。結果としてこの手の話は社会実装してから考えようぜ~ということになって今日のインターネットがあるわけなので、後世を生きる若者がこれで正しかったと思えるように僕たちも考え続けなければならない。
何の話だっけ…。
プラットフォームに依存しない
2019年3月にピエール瀧が逮捕されたことを受けて電気グルーヴの音源が各音楽サブスクリプションサービスで一斉に配信停止措置を受けた件で、あれこれと議論が盛り上がったのを覚えている。それ以外にもTwitterがドナルド・トランプをBANしたとか、PornHubが未承認ユーザーの動画を一斉削除したとか、何かと巨大プラットフォームへの依存について考えさせられる事案は多い。
現状Kindleはじめ電子書籍プラットフォームでそういう話は聞かないけど、それでも起きないとは限らない話である。「華氏451度」ではないけど、何かしら過激で危険な思想を抑え込みたいという意識によって本が燃やされることは今までにもあったし、多分これからも起きる。それが電子書籍においては原理上あまりにも容易に実現できてしまうということは頭に入れておきたい。
まぁ~でも紙の本でも出版停止とかよくあるし、Kindleがサービス開始してから10年以上経ってもそういうことは (たぶん) 起きてないし、正直「電子書籍ではなく紙の本を選ぶ理由」として大きなものにはなり得ないんじゃないか、とも思う。今もうGAFAMをはじめとする巨大IT企業のプラットフォームから完全に独立して生きることは実質不可能だと思うので、これはちょっと潔癖症っぽい意見かもしれない。
なので、Kindleでしか本を読まないという人に対して「お前はテックジャイアントに隷属しているッ!」みたいなことを言うつもりは全然ないです。
慣れ
これが一番大きい。軽量な電子ペーパータブレットでテキストデータを読むという行為の合理性が頭では理解できてるんだけど、なかなか身体が順応しない。
パラパラとページをめくって「この辺にあの話が書いてあったはず」という記憶を辿る、残りのページ数を指の感覚で知覚して結末に向けた心の準備をする、久々に登場した人物の名前を思い出せなくて今読み進めている箇所と冒頭の二ヶ所に指を挟んで交互に読む…そういう行為のひとつひとつが身体に染み付いていて、タブレットでの読書に激しい不自由を感じてしまう。
もちろん電子書籍リーダーにそういう機能があるのは知っている。ハイライトしておくとか、いつでもメーターで全体のページのうちどのあたりを読んでいるのか知れるとか、メモを参照できるとか。なので、この話は少なくとも自分にとってVimを使い続けているのと同じく「そこに身体を適応させるのがしんどい」みたいな怠慢である。
一応それっぽい理屈をこねると、これはジェームズ・ギブソンの言う「アフォーダンス」、つまり行為と知覚は常に同時に起きていて互いにフィードバックしあう循環構造を成しているという仮説から説明できる。僕はページをめくったり、指を挟んだりするという「行為」によって、無意識下では同時に本から「あとどれぐらいのページが残っているな」「冒頭にこの人物が登場してからこんなにページが空いているな」みたいな情報を受け取る、つまり「知覚」をしている。無意識である以上それは皮膚や筋肉が感じる刺激であるところの身体感覚に依拠するので、それが「現在のページ数: 123」みたいな文字情報として読めても僕が得ていた情報を完全に代替することはできない。
人は本に対して作用し、生じる反作用によって自分で意識している以上のメタ情報を得ながら文字を読んでいる。紙の本における読書とは、おそらく思っているより全身体的な運動という側面の強い行為である。なので、電子書籍に適応するにはそういった身体に内在するフィードバック循環の書き換えが必要になるわけで、この点はCDからmp3プレイヤーへの移行との決定的な違いだと思う。その過程には (個人差があるだろうけど) それなりの不自由な感覚を伴うはずだし、僕はその不自由を乗り越える努力をしたくないので、今も紙の本を読んでいる。
なんか「自動化なんかしている暇があるなら手作業で仕事進められるでしょ」みたいな話なんじゃないかと思えてきた。ウーーン怠惰!
正しい読書
そもそも読書ってそんなに効率的に最適化してやるような高尚な取り組みではないような気がする。ゲームやったりプラモ作ったりするのと同じ娯楽のひとつだし、そこで他人の流儀に「お前アケコン使わないのか」とか「成形色のままトップコート吹くなんて」みたいなことを言うのが野暮であるのと同じように、本なんて好き勝手に読み散らかして楽しくなれたらそれで満点なのでは?という気がする。僕は漫画や小説以外にも専門書みたいなものを読むことが多いけど、別に読んだからといって賢くなるというものではないし、日々向き合っていることを幾ばくか楽しく考えるために買っているところが大きい。ハイライトを保存できるとか検索できるとかは、情報活用上のアドバンテージである以上に上記した流儀の範疇であるとも思う。たぶん読書なんて別に大した行為ではない。良い意味で。
こうやって新しいものを拒むことは老化の始まりなのかもしれないし、あるいは何でもかんでも新しいものに飛びついているわけではないという点では冷静と言えるのかもしれない。まあでも特に電子書籍アンチというわけではないし、可能性として同棲するとか結婚するとか生活様式を改める機会がこの先にないとも限らないので、なんとなく機運が生じたら意外とあっさり乗り換えるのかもしれない。
とりあえず今のところまだ引っ越しに際してかかる労力は許容範囲内である。先の話はその限界を超えてから考えることにしたい。そして限界を超えるまでに積んでいる本を読みたい。昨日DARK SOULS買ったけど…。